江戸時代は米遣いの世で、経済は米中心で動いていた。それで米以外の商品はひとまとめにされ、「諸色(しょしき)」とされていた。
米価は江戸時代前半は高値で推移した。
米が不足気味だったからである。それが中頃の享保期(1716~36)から下落に転じた。享保の中頃の米価はその初年の半値になった。米の生産力が上がってきたのに、その大消費地である三都(京郡・大阪・江戸)の人口増がその頃から止まったままになってしまったからである。
ところが諸色は米価下落に連動せず、逆に上昇に転じた。享保より前の元禄(1688~1704)の頃から都市の人々の暮らしが派手になり諸色の需要が増えた。だが供給力は低いままのものが多く、それらの品不足状態が続いたからで、世は「米価安・諸色高」となった。
それにつれて起った社会間題の一つに脚気(かっけ)の多発があった。それはビタミンB1の欠乏からくるもので、死亡率の高い病気だった。江戸と大坂での発生がとくに多く、前者では「江戸煩(えどやみ、えどわずらい)」として恐れられた。
ビタミンB1は玄米にはあるが、白米にはほとんどない。最初は玄米をたべていた江戸の人たちがだんだんぜいたくになり、白米をたべるようになったのは元禄の頃からで、それとともに脚気がでやすくなった。その辺のところを土肥鑑高氏は『米の日本史」(雄山閣、2001)でこう説かれている。
江戸で脚気が大流行したのは米価の下落がひどかった享保・宝暦期(1716~64)と文化・文政期(1804~30)だった。白米だけが安く、それ以外のたべものや食材は高いとなれば、白米の多食で食事をすませてしまう人が多くなる。それがその原因だったと(149~151頁)。
話はとぶが江戸に初めて焼き芋屋が現われたのは、白米食がとっくに当り前になっていた寛政の頃(1789~1801)だった。焼き芋は江戸の人々に受けた。焼き芋屋はたちまちどの町内にも生まれ、繁盛した。そして江戸の冬のおやつといえば焼き芋となった。
いままでなかったものがなぜそれほどまでのものになれたのか。あまくてうまい。諸色高の中の例外でそれだけは安く買い易かったということのほかに、わたしはもう1つ付け加えたい。それは当時はビタミンの知識などはなかったが、人々の体がそれに必要な、だが欠けているなにかが焼き芋にあることを感じ取っていたからではなかろうかということである。
焼きいもにあるビタミンB1は、白米のめしのそれの四倍近くもある。そういうものを好んでたべればたべるほど、体調がよくなったはずだからである。