韓国ソウル放送の女性ディレクター、季さんが取材にきてくれた。さいきんは韓国でもサツマイモは健康食の一つとして見直され、人気がでてきているという。ただたべ方は焼き芋ぐらいのもので、ほかに目立つものがない。
ところが日本は違う。いも料理にしても、いも菓子にしてもさまざまなものがある。その違いを母国の人たちに伝えるのが取材のねらいだという。
季さんは日本で生まれ育ったので、日本言は上手だ。仕事が終ってから、サツマイモは好きかと聞いてみたらこんな思いがけない話になった。
「自分も母も大好きだが、亡くなった父は大嫌いで見るのもいやだといっていた。父の出身地はチェジュ(済州)島。太平洋戦争中に日本に連れてこられ、関西の軍需工場で働かされた。そこで一番つらかったのは給食の量が少なすぎ、常に腹ぺこだったことだった。このままでは死んでしまうと思い、休日は食料の買い出しに当てた。といっても食料はすべて国の厳しい管理下にあったので、近隣の農村に行っても大根ぐらいしか買えなかった。
本当はサツマイモが欲しかったのだが、これは農家の人にどう頼んでも売ってもらえなかった。仕方がないので収穫の終ったサツマイモ畑に入り、捨ててあるくずいもを拾った。それは小指ぐらいの細いいもばかりだった。宿舎に帰ると鍋に米を1つかみ入れた。それに拾ってきた細いいもを刻んで加え、うすいいもがゆにしてすすった。
父によるとチェジュ島はサツマイモ畑が特に多いところで、いもなんかいくらでもあった。それが日本へきたら一本のいもも買えなかった。その時の惨めさ、くやしさは自分にもよくわかる」
太平洋戦争末期の都会の人たちの食料の買い出しの話はよく耳にする。だが季さんのお父さんのように、体一つで見知らぬところへ連れてこられ、空きっ腹を抱えて働かされた人たちのそれを聞いたのは初めてだった。
女の石焼き芋屋(平成19年2月16日)
当館には取材でマスコミ関係者がきてくれることが多い。わたしは相手が仕事が終ってからの一時、雑談をさせてもらうことにしている。思いがけない話がよくでてくるからだ。
今日は東京の六本木に事務所があるという婦人記者が週刊誌の取材できてくれた。例により仕事後の雑談になった時、こんな話をしてくれた。
「毎年、冬になると事務所のそばに女の石焼き芋屋さんが現われるんです。軽四輪に道具を積んでね。男だとなんとなくこわくていいたいこともいえないけど、おばさんなら大丈夫。なんでもいえちゃう。
その人は客がくるとちいさく切った焼き芋をくれるんです。一たべてみて~と。うん、うまいとなった時、困ることがあるのは大きさ。手頃のものがなくて大いもしかない日がある。 『困ったなあ、どれも大きすぎる』 というと、『じゃあ半分にしてやろう』 といって包丁で半分に切ってくれる。もちろん値段も半分にしてくれる。
それを知っている人たちはおばさんの車がくるといっせいにそこに集まる。場所と時間? 地下鉄の乃木坂駅の前で午後の1時頃」
さいきんはスーパーの店頭や店内でいもを焼き、安値で売っているところが多くなった。石焼き芋屋にとっては強敵のはずだが、このおばさんのやり方ならファンを逃すことはあるまい。