むかし「太白」というサツマイモがあった。大正期から昭和30年代にかけての埼玉の代表的ないもといえばこれだった。それがさいきんはまったくと言っていいほど見かけなくなった。長年、親しまれてきたいもが、記録らしい記録も残さずにざびしく消えようとしている。
川越いも友の会では、それではかわいそうだ。せめてその記録だけでも残そうとなった。それでできたのが「懐かしのサツマイモ太白ものがたり」という小冊子で、今日はその発行日だ。

編集者は同会事務局長の山田英次さんとわたしの二人。その作業を通してわたしも改めてその特性と捨てがたい良さを知ることができた。それを幻のいもにしてしまわないための方法も考えることができた。

小野田正利氏の『さつまいもの改良と品種の動向』(藷類会館、昭和40年)によると、埼玉県の太白は明治末期に九州から入った。形状は長紡錘形。皮の色は紅。最大の特色は肉の色が白であることと、肉質がねっとりタイプであること。蒸しいも用であまい。ホクホクのいもは蒸したてはうまいが、冷めると味が落ちる。ところが太白はさめてもうまい。
作りやすく収量も多かったので、農家の自家用のいもとして歓迎された。ただいもが長くなりすぎて、曲ったり、折れたりした。そこで埼玉県農事試験場は理想的な形状の太白を選抜し、大正7年(1918)に「太白埼一号」として世に出した。それを県の奨励品種にしたので、太白は県下全域に普及した。

「川越いも」が有名だったので埼玉県は全国のサツマイモ作りの先進地とされていた。そこでいい太白を出したという情報が流れると、全国からその種いもと苗の注文がきた。埼玉県が太白の全国普及に及ぼした力は大きかった。
埼玉県下では「サツマイモ」と言えば太白のことだったという所が多い。紅赤は作りにくかったが、太白ならどこでもよくでできたからだ。太白は農家の自家用として作られていた。それは川越地方でも同じだった。当時の「川越いも」は「紅赤(ベにあか)」だった。これは作りにくく、収量も少なかったが、太白より需要がはるかに多く、値段も高価だった。それで販売用には専ら紅赤を作り、自家用には太白を作っていた。

むかしの農家は地味で、現金を使うことを嫌った。おやつも買って食べるということはめったになかった。年中、自家製のものだった。戦前から昭和の30年代頃までの、秋から翌春にかけてのおやつは蒸した太白が多かった。
戦後しばらくして世の中が豊かになってくると、農家のおやつも変りだした。毎日蒸しいもばかりというわけにはいかなくなった。都会の人たちと同じように好みのものを買って食べるようになった。こうなると太白の必要性は低くなる。どこの家の太白畑もちいさくなり、やがて消えてしまった。川越地方の太白畑が消えた時期は昭和の30年代から40年代にかけてだった。県下の他の地域でも同じようなものだった。

当館に勤めてみて分かったことの一つは、世の中には太白を探している人が大勢いるということだった。むかし食べた太白の味が忘れられない。それでずっと探しているのだが、どこをどう探してもない。あるのはホクホク過ぎて、のどが詰まりそうないもばかりだ。懐かしい太白はどうすれば手に入るのか。ぜひ教えて欲しいという問い合わせが全国からくる。
東北、関東、関西からが特に多い。その人たちのトシは当然のことながら60代以上。トシを取るとむかし慣れ親しんだものがよくなるようだ。わたしはその願いをかなえてあげたくて太白を今でも作っている人を探しだした。なかなか見つからなかったが、7~8年前に秩父市阿保町2-13の飯島久さんがその一人であることを知った。

飯島さんは秩父地方の太白畑がどんどん消えていくのを見て、このままではこのいもはもうすぐ消えてしまうに違いないと思った。むかしからこの地方の者がずい分世話になってきた太白を、われわれの代でかんたんに消してしまっていいのだろうか。だれもがもう作らないというのなら、自分だけでもがんこに作り続けるしかなかろうと思い、ずっと守ってきたのだという。
幸い、あそこには太白があるということを聞いて、遠くからいろんな人が分けてもらいにくる。だから張り合いもあるという。その飯島さんのさいきんの悩みは後継者だ。70過ぎの飯島さんにとって畑社事は年々つらくなっている。本当は跡を継いでくれる人が欲しいのだが、そういう人が見つからなくて困っているのだという。

『太白ものがたり』の作成のために川越地方の村々を回っていて、とても嬉しいことがあった。それは三芳町上富で40代の人が太白を作っていたことが分かったことだった。その人は同町上富1003の林伊佐雄さんで昭和32年(1957)生まれ。考えるところがあって数年前からサツマイモ作りに本腰を入れるようになった。
上富地区は川越いも産地の中でも特にいいものが取れる所として江戸時代から有名な所で、今でもサツマイモ専門の農家が20数戸ある。林さんはかなり遅れてその仲間に入ったので、前からやっている人と同じことをやったのではだめだ。追いつけないと思った。それで他の人とは違うやり方でやることにしたのだという。

みんなは在来種の「紅赤」と、さいきんはやりの「ベニアズマ」の二つしか作っていない。それを農家に直接買いにきた人に売っている。林さんもその2品種を主力にはしているが、その他にも少しずついろんないもを作っている。紫いもやカロチンいも、そして太白などだ。それを庭先販売ではなく、インターネットで売っている。
その手応えは上々という。たとえば太白ならこうなることが多いという。「えっ、太白があったの?驚いた。もうどこにもないものとあきらめていたの。ぜひ売って」。わたしも太白が生き残れそうな道の一つはこの辺にあるように思った。