サツマイモの原産地は熱帯アメリカとされている。コロンブスのアメリカ発見後、急速に世界に広まった。

わが国にも江戸時代の初めに入ってきた。まず沖縄に入り、そこから九州に伝えられた。九州のサツマイモは少しずつ北上し、江戸時代のまん中に当たる享保期(1716-36)には近畿地方でも作るようになった。
関東でも享保期に入ると各地で試作が始まった。ただどれもうまくいかなかった。サツマイモは熱帯原産だけに寒さに弱い。関東のように冬が長く、寒さも厳しい所では南の暖かい所の常識は通用しない。ここは今でもサツマイモ栽培の経済的北限とされている所だ。それがわからないままの試作だったので成功するはずがなかった。
そうこうしているうちに享保17年(1732)の大飢饉が起った。ウンカの異常大発生によるもので、西日本の水稲が大凶作になりたくさんの餓死者が出た。ただサツマイモを熱心に作っていた所の被害は軽かった。

時の将軍は徳川吉宗だった。サツマイモが救荒作物として優れていることを知り、それを国中に普及させたいと思った。ちょうどその時現われたのが江戸の町儒学者だった青木昆陽だった。
昆陽はサツマイモの作り方、貯蔵法、そして効用などをまとめ、「蕃藷考」として将軍に献じた。それが容れられ、江戸での試作を命じられた。享保20年(1735)のことだった。サツマイモがどんなに優れた救荒作物であっても将軍のひざ元の関東で作れないようでは話にならなかったからであろう。
昆陽は江戸日本橋の商家に生まれたが学問を好み、その道に入った。都会育ちの学者で農耕の経験はなかった。ただ中国と日本の文献を通してサツマイモの特性と扱い方を知っていた。
しかも幕府当局の特別な計らいがあった。当局は昆陽一人による試作の前年の享保19 年に、長崎のサツマイモ作りのベテランと昆陽とを組ませ、江戸城内で試作させている。それがすでに成功していたので、昆陽は自信をもって本番に当たれたといえよう。
今までだれがやってもうまくいかなかった関東でのサツマイモの試作に、昆陽が見事成功したわけはこうした所にあった。

昆陽の試作は江戸小石川の養生所と薬園で行なわれただけではない。同時に上総の不動堂村(千葉県九十九里町)と下総の馬加村(千葉市幕張)でも行なわれていた。不動堂村では失敗したが馬加村では成功した。そのためここが関東でのサツマイモ作りの先進地になった。
馬加村から東京湾岸沿いに南へ40キロほどの所に志井津村(市原市椎津)がある。半農半漁の村で、馬加甘のいも作り技術をいち早く吸収した所の一つのようだ。「川越いも」のルーツは実はこの村だった。川越地方で最初にサツマイモの試作に成功したのは武蔵野台地のまん中の南永井村(所沢市)の名主、吉田弥右衛門だった。そのメモ「寛保三年 覚書聞書覚帳」に志井津村からのサツマイモ導入のいきさつが詳しくある。
南永井村は江戸時代に入ってから開かれた新田だった。地力が低いうえに地下水面が低かったので夏の干ばつに特別弱い所だった。干ばつに強いはずのアワやヒエでさえ、不作の年が多かった。これではいつまでたっても村民の暮しはよくならない。
なんとかしなければと思っていた弥右衛門の所に耳よりな話が入ってきた。上総や下総の国では最近サツマイモを作る村が増えている。それはどんなやせ地でもできる。干ばつにも強い。飢饉の時だけでなく、ふだんの食料になる。それを食べて自家用の穀物の消費量を減らせば、販売に回せる穀物の量が増える。
それはいいことずくめのものだった。弥右衛門は南永井にとって今一番必要なのはこれだと思った。さっそく向うの人でいも作りを教えてくれる人を探した。すると江戸木挽町の河内屋八郎兵衛という人が、そういうことなら上総の志井津の長十郎さんがよかろうと紹介してくれた。

弥右衛門が52歳の時のことだった。自分は旅に出なかった。代りに26歳のせがれ、弥左衛門をやった。彼は勇んで長十郎さんの家に行き、いも作りといもの貯蔵法を教わった。種いももたくさん買い込み、九日目に無事帰宅した。寛延4年(1751)の春のことだった。弥右衛門父子はさっそくいも作りに取り組んだ。幸い秋になるといもができていた。これが「川越いも」の作り初めだった。
川越いもは青木昆陽の江戸での試作直後から始まったと思っている人が多い。だがそれは違う。川越地方での試作成功は遅く、昆陽のそれから16年も後のことだった。

今年、平成13年(2001)は川越いもの作り初めからちょうど250年目に当たる。そこで川越いもをこよなく愛する有志の会、川越いも友の会ではいくつかの記念事葉をさぜてもらうことにした。その一つが今日の「吉田弥右衛門を語る会」だった。
吉田家の当主、吉田徹四郎さん(昭和元年生まれ)は先祖伝説の地、南永井に住まわれている。会の役員が事業案の説明と、それへの協力をお願いに伺うと、「それはありがたいことです。ご先祖様も喜んでくださることでしょう」と快諾してくださった。
会場は南永井の八幡神社の集会所。新聞などでこの催しを知った人たちが各地から60人も集った。
その席で徹四郎さんが吉田家文書の意義についてこんな話をされた。
「うちは近郷の人たちから、昔から『あそこはサツマイモの元祖だ』といわれてきました。うちにはそれにちなんだ伝説がいろいろあります。でも元祖の証拠が伝説だけというのでは弱いです。幸いうちにはそれとは別に先祖の弥右衛門が、サツマイモの導入と普及に努めた記録があります。弥右衛門が寛保3年(1743)から書き初めた『覚書聞書覚帳』の中にそのことがあります。それでうちは確かにサツマの元祖だといえるわけです。
うちには古文書がたくさんありました。それがいつの間にやら無くなってしまいました。ただこの『覚書』だけは残りました。代々の当主がケヤキの大きな銭箱に入れて保管してきたからです。これだけは特別大事なものとしてきたことが、このことからも分かって頂けるのではないかと思います」

今では所沢市の文化財になっているこの古文書の存在を世間に広く伝えようとされたのは国学院大学の桑田忠親教授だった。そのいきさつは同教授の『黄色い鶏』(旺文社文庫、1982)に詳しくある。