終戦が八月十五日だったからであろう、毎年夏になると戦争中のサツマイモのことを話してくれる人が多くなる。

当時、埼玉県比企郡のある村に疎開していたという男の人が来て、こんな話をしてくれた。

「おれんちは東京にあった。 戦争で田舎の親類を頼って疎開した。そこは荒川の土手のそばの農家だった。納屋を借り、一家五人で住んだ。おれが小学校三年の時だった。その頃は農村にも食糧がなかった。僅かな配給品しか手に入らない。家中の者がひもじい思いをしているのを見て、親は畑を借りていもを作ろうとした。
疎開先の親類に畑を貸してもらおうと何度も頼んだが、貸せる畑はないと貸してくれない。それでも頼み続けたら、荒川の堤外の桑畑ならと、しぶしぶ貸してくれた。そこは大雨が続くと川の水面が上り、水に漬かってしまう河川敷だった。それで水が出ても大丈夫な桑ぐらいしか作れない所だった。その桑の株と株の間ならサツマイモの苗を植えてもいいということになった。
わが家は大喜びで、さっそくそこに家中でいもの苗を挿した。ところが九月に入るとすぐ、心配してた台風が来た。荒川の水位が上り、やがてうちの桑畑も水に漬かりだした。
サツマイモは何日か水に漬かっていると煮ても焼いても食えないガリガリの「石いも」 になってしまう。親たちはそれを知っていたので、もうだめだとなった時、いもを掘ることにした。
それは暴風雨のまっ最中の真夜中だった。おれは寝ていたところをたたき起こされ、河川敷の桑畑へと走った。畑の水はもうおれの腰まできていた。濁流がゴウゴウと流れていて怖かった。闇夜の川で流されたらおしまいなのはだれもが分かっている。家中の者が一か所に集まり、声を掛け合いながら手探りで泥水の中のいもを取った。
まだ夏が終わったばかりで、いもを掘るには一か月も二か月も早かった。だからいもはどれもちっこい奴ばかりだった。それでも一本でも「石いも」にしたくない。これ以上畑にいると押し流されてしまうというぎりぎりまで必死でいもを探った。
あの夜のことは今でも忘れられない。 頭に焼きついている。疎開者には『いも』というと、他の人には分からない特別の思いがあるんだ」。