今年の1月中旬、日本経済新聞文化部の川口一枝記者から、同紙にサツマイモ資料館のことについて何か書いて欲しいと頼まれた。
そこで川越いもが有名になったわけ、その川越にはちょっと珍らしいサツマイモの資料館があること、展示品の目玉は生いもで、昔懐かしいものから最新のものまで20数種類もあること、たとえば「紅赤」(金時)のように100年の歴史を誇るものもあれば、「沖縄100号」のように、太平洋戦争末期から終戦直後にかけての食糧難時代、国民を餓死から救った多収いものエースもあることなどを400字詰原稿用紙で8枚ほど書いた。
それが1月26日、同紙の文化面に載った。見出しは向うで「サツマイモ史掘り出すー埼玉・川越で日本唯一の資料館運営」と付けてくれた。300万部も出ているという全国紙の反響はすごい。全国各地からたくさんの電話と手紙をもらった。その一つに東京在住の北村紀雄氏からの、こういう電話があった。
「日経で沖縄100号のこと、懐かしく読ませて頂きました。わたしは小学校の頃から海軍経理学校に入るまで、そう昭和6年から18年まで沖縄にいました。
父が昭和6年、沖縄県農事試験場に赴任、14年からは場長をしていたからです。東大で農芸化学を学んだ父は、沖縄では土壌肥料とサトウキビの研究に力を入れていました。
当時の試験場は本場が与儀、支場は小禄と名護にありました。サツマイモの研究をやっていたのは小禄で、沖縄100号で有名な松永高元さんはむろんそっちでした。
松永さんを知っているわけ? あの方のせがれ、淳雄君とは那覇の甲辰小学校で同級でしたからね。 わたしの父のその後ですか。戦争末期になっても内地に引き揚げず、沖縄戦で場長として殉職しました。当時、わたしは内地の軍の学校にいて生き残ったわけです」
熱帯アメリカ原産のサツマイモは熱帯や亜熱帯なら花を付け、種もできる。わが国で花が咲き、自然交配による新種ができていたのは沖繩くらいのもので、九州以北では花さえめったに咲かない。
沖縄は水田が少ない。その上、 早ばつと台風が多いので、安定した食糧作物といえばサツマイモしかなかった。戦前の県民の常食はサツマイモだったので、県当局はその改良を考え、大正3年(1914)、世界でも初めての人工交配による育種事業を開始した。
それが昭和に入ると農林省の委託事業に発展したため大規模になり成果も一層あがった。昭和9年に沖縄100号が出たのもこうした背景があってのことだった。
その育成者が松永高元氏だったことは諸書にある。だが、どれもそのことだけで詳しいことは何もない。もう分からなくなってしまっている人なのかなと思っていた。そんな時、松永さんを知っているという人が現われたのだから夢のように嬉しかった。
わたしはこれまでに沖縄100号についてのレポートをいくつか書いている。それを早速、北村さんに送った。するとすぐ、あなたが研究しようとしていることは分かった。鹿児島市にいる級友敦雄君に頼んだらお父さんの略歴と写真を送ってもらえることになった。近いうちにお目にかかりましょうという手紙がきた。
2月6日、東京神田の如水会館で北村さんに会った。氏は戦後、一橋大を出て日銀に入られた。今は公認会計士をされているという。 まず松永さんの略歴書と写真2枚を頂いた。
前者に本籍、鹿児島市。明治25年(1892)12月28日生まれ。大正3年、鹿児島高等農林学校卒とあった。大正3年といえば沖縄県が世界に先駆け、サツマイモの近代的な育種事業を開始した年ではないか。大正5年、その沖縄県農事試験場に赴任、サツマイモと関わることになった。
沖縄100号を世に出したのは昭和9年だから、松永さんが沖縄に来て18年目、42歳の時のこととなる。 農林水産技術情報協会理事長、西尾敏彦氏が、日本農業共済新聞の1997年8月2週号に「松永高元氏とサツマイモ「沖縄100号」」を書かれていたことをちっとも知らなかった。
このすばらしい論考も、北村さんが級友からもらってくれていた。 それによると松永さんは小禄試験地の初代主任になった。ここではいろいろのサツマイモを交配し、種子を採って全国各地の農業関係の試験場に送っていた。
松永さんはその仕事のかたわら、新品種の育成にも力を入れていた。ただ長年の過労がたたって病気になり、沖縄戦の直前に鹿児島に帰ったとあった。
さて略歴書にもどろう。戦後は昭和21年から27年まで鹿児島大学農学部の講師をされている。亡くなられたのは昭和40年、72歳だった。 写真は2枚あつた。1枚は背広姿、1枚は和服姿だった。いい写真を頂き、遠くにかすんでいた松永さんがとても身近に感じられるようになつてきた。
沖縄100号で難かしいのは味のことだ。沖縄への愛着が人一倍強く、第2の故郷とされている北村さんに、あなたの記事で気になることがあった。沖縄100号はまずかった。それでたくさんのいも嫌いを作つてしまったとあつた所だ。「沖縄県農業試験場百年史」(同場編、昭和56年)にも「本品種は在来の常食用品種に比し、多収にして品種佳良」とか、「黄色、粉質、繊維なく食味佳良」とあるではないかと言われてしまった。
サツマイモの味は同じ品種でも気候、土質、作り方、貯蔵などで変わる。その時はそんな話をして別れた。
それから1月ほどたった今日、愛知県豊橋市の森田真次氏(86歳)から、自著「小沢式の体験行脚、甘藷増産15年」(興英社、昭和23年)が送られてきた。
昭和の前半期、サツマイモが国策作物として脚光を浴びていた時のこと、豊橋に小沢豊といういも作り名人がいた。森田さんは小沢先生に師事、「小沢式甘藷栽培法」 の普及のため、日本全国はもちろんのこと、南洋や中国の華北地方にまで出かけたという。
その森田さんも沖縄100号の味の評価のむずかしさをこう書かれている。「南は南洋から北は北海道に到るまで栽培可能の面白い品種である。寒冷地に向うにしたがって味は悪くなるが、南洋では一、二を争い、台農9、10号と共に最優秀品種であった。
内地では食味はよい方とは申されないが、貯蔵して長く保存すると段々他種を凌駕し、春4、5月に到れば申分のない甘味を増す」
沖縄100号は奥が深い。これからもこのいも関係の資料収集に努めたい。