川越のJR南古谷駅前に「榎本青果店」がある。店は大きくはないが明るく楽しい所でわたしも大のファンだ。まず品物がいい。店主の榎本信次郎さんは昭和18年生まれ。「いい品物を安く消費者へ」をモットーにがんばり、昭和63年には「第11回優良経営食料品小売店全国コンクール青果小売業部門」で農林大臣賞をもらっている。
榎本さんは商売熱心なだけでなく、その合い間にすばらしい水彩画を描いている。何でも描くそうだが、身近にある野菜や果物が多い。それも自己流ではない。「キミ子方式」という独特の描法で知られる松本キミ子先生に就いての本格的なものだ。
完成した絵は額に入れられ、店内の壁面に所狭しと飾られている。その数は十数点はあろう。絵は時々入れ替えられるが、昔からずっとあるものもある。その1枚に「高系14号」という品種のサツマイモを1本だけ描いたものがある。「昭和57年作」とあるから15年ほど前のものになる。
サツマイモに関心のあるわたしは、店に入るとまずその前に立ってしまう。店主もそれに気がついて、ある時こう釘を刺されてしまった。「いくらほめたってだめですよ。この絵だけはあげるわけにはいきません」 何も知らなかったわたしは、次のようなわけがあったと聞かされて驚いた。
「大分前のことです。松本先生がある本を出されることになり、それに何人かの弟子の絵も載せてくださることになりました。先生はそれぞれに描くものを言い付けられました。その時わたしは『あなたは八百屋さんなんだからサツマイモを描いて』と言われたんです。
普通なら大喜びするところです。先生のお手伝いができるんですから。ところがわたしはそうではなかった。『サツマイモ』と聞いて気が抜けちゃったんです。野菜にはもっと描き甲斐のあるものがいくらでもありますからね。それなのに何であんなかんたんなものをと思ってしまったのです。
ところがいざ描いてみると描けないんです。色が出せないし、存在感も出せない。いくらやってもだめなんです。これには参りました。それでも悩み続けているうちにやっと気が付くことができたんです。サツマイモをかんたん過ぎる、つまらないものと馬鹿にしていた自分の慢心に。わたしはサツマイモに謝りました。『サツマイモさんよ、ごめん、ごめん』。そして頼みました。『どうか描かせてください。描かせて頂きます』と。そうしたらこの絵が描けたんです」
なんと、このサツマイモの絵は、榎本さんにとって画業開眼の記念碑的なものだったのだ。それにしてもここのすばらしい作品が店に来る買い物客にしか知られていないのは残念だ。無理にお願いして、当館で作品展を開いてもらうことにした。榎本さんにしても店に置いているのは作品の1部だ。特に場所を取る大作は飾りようがない。そういうこともあってであろう、心よく協カしてもらうことができた。
榎本さんの最初の個展にもなったその名称は「八百屋さんが描いた野菜絵展」。会期は平成8年4月28日から5月6日までで今日が最終日。出品作品は31点。むろん例のサツマイモの絵もあった。幸い来館者も多く、大成功だった。