当館では11月1日から12月25日まで、特別展「戦争とサツマイモ」をやっている。昨12月6日、「朝日新聞」がそれを「家庭」欄で取り上げ、全国に報じてくれた。見出しは「イモも戦争の犠牲者。埼玉・川越で」で、電話番号まで付けてくれた。おかげで昨日、今日と当館の電話は鳴りっ放しで嬉しい悲鳴をあげた。
一番多かったのは「日本にサツマイモの資料館があったとは知らなかった。行ってみたいので資料を送ってもらいたい」というものだった。次に多かったのは全国からの老人の声だった。「戦中、戦後の食糧難時代、おいもさんには本当にお世話になった。おたくに昔のおいもさんがあると知り、行ってみたいがもうトシだ。どこへも出られない。わたしに代っておいもさんに『ありがとうよ』とお礼を言ってもらいたい」と頼まれた。
日本近現代史の研究者、大江志乃夫氏は近著、『満州歴史紀行』(立風書房、1995)で、戦後50年の今年は戦争を振り返る「たぶん最後にして最大の機会となるであろう」とされている。その意味はこうした高齢者の声からもよく分かる。
面白かったのは「いも資料館は川越にしかないのか」と念を押してきた人が数人あったことだった。岡山県の笠岡市に「いもの弁さん」で通っていた渡邊弁三氏がいた。明治元年生まれでがんこ者の弁さんのトシを取ってからの願いは、笠岡に市立いも博物館」を作ることだった。戦時中からサツマイモの研究に没頭していたのと、笠岡には「いも代官」として有名な井戸平左衛門の墓所があるからであろう。
その猛運動によって昭和27年にわが国で最初のサツマイモの博物館が誕生した。弁さんはすでに82歳という高齢だったが、自から初代館長に就任、十年後の昭和37年に92歳で亡くなるまでその職にあった。
ただどこかに無理があったのであろう。弁さんが亡くなると「市立」だったにもかかわらず、建物も資料も跡形もなく消えてしまったという。それから30年以上もたった平成元年になって、やっとそれに続く2番目の資料館ができた。それが川越の当館で、この種のものとしては日本唯一ということになっている。