当館の売店のいも粉を見ていた男の人がつぶやいた。「こういうものは見たくないな、戦後の食料難を思いだしちゃうよ」。 わたしが 「そのだんごを食べさせられたのですね」 というと、 「違う。それはごちそうだった。わが家では毎日、ぬかのパンを食べていた」 となり、こう続けてくれた。
「わが家は東京の下町の本所にあった。昭和19年にそこの国民学校に人ったが、すぐ千葉県下に疎開した。それで命だけは助かった。その後の空襲で家を焼かれた。
終戦の翌年、焼け跡にもどりバラックを建てた。その頃の東京の食料事情はひどすぎた。とにかく食べるものがなかった。例外は米のぬかだけだった。それはどういうわけかたくさんあって安く買えた。だからうちではそのパンを焼いた。
ぬかは水だけではまとまらない。小麦粉をちょっと入れればいいのだが、それがなかった。仕方がない、ぬかを軽く握って手製のパン焼き器に入れた。そのパンは手に取ろうとするとぐずぐずに崩れた。毎日そんなものしかなくて、よく体がもったものだと思うよ」
その頃、でん粉のしぼり粕をフライパンで焼いて食べた話は聞いている。だが、ぬかのパンとは今日が初めてだった。