干葉県の成田空港周辺の市町村は、わが国有数のサツマイモ産地として知られている。その一つに栗源町がある。町と言っても感じは純農村。人口も5300人と少ない。それだけに町民のまとまりがよく、大きな力をだす。それがはっきり出たのが昭和の末頃から盛り上った町おこし運動だった。その核は毎年秋の「くりもとのふるさといも祭」で、今年で16回目になる。
同町にはこれというほどの祭りはなかった。それで特産のサツマイモを使っての特色のある祭りを考えた。客が大勢くればくるほど町の農産物のPRができるからだ。
それが最初から当った。客は県内はむろんのこと、束京方面からもきてくれた。その数も年々増え、初期の1~2方人が今では五万人にもなっている。町の人たちも人口の十倍もの人がくると胸を張る。
いも祭りの見せ場は初めから日本一をねらった広大な焼き芋広場での焼き芋大会。その広さは初期の10~20アールが今では50アール。そこで大量のいもを焼いで客に振る舞うわけで、量も初期の1~2トンが今では5トンにもなっている。
しかもいもは栗源にしかないものを使う。さいきんの関東のサツマイモのほとんどは「ベニアズマ」になっている。栗源でも主流はそれだが、ここには「紅小町」もある。
紅小町が世に出たのは昭和50年だった。焼き芋に最適のいもとされ、さかんに作られた。ただ病気に弱く、作りにくいという弱点を抱えていた。それで昭和59年に丈夫で作りやすい「ベニアズマ」が現れると見捨てられ、あっという間に幻のいもになってしまった。
それでも栗源にだけは紅小町を愛し、がんこに作り続けている人たちがいる。「いも侍」と自称するその人たちが作った紅小町だけを焼くのだから、客にとってはそれほど嬉しいことはない。
そしていもの焼き方が豪快だ。トン単位のいもを一気に焼き上げるには、それなりの工夫がいる。それで考えられたのが「もみがら方式」だった。
もみがらの巨大な山を作り、まん中に太い煙突を立てる。そういう山を広場いっぱいに広がるように点々と配置する。その数、今では150。山と山との間隔は客が殺倒しても大丈夫なようにたっぷりと取る。
もみがらの山を燃して熱々の灰の山に変え、その中に大量のいもを入れて蒸し焼きにするわけだが、それにはびっくりするほど長い時間がかかる。灰を作るのに8~9時間、いもを焼くのに3時間と。そのためもみがらの山へ火を入れるのはま夜中になる。それも一度にはやらない。客は思い思いの時間にやってくる。そのだれにも焼きたてのいもをごちそうしたい。それでさいきんは広場を3ブロックに分け、夜の10時、零時、朝の二時というように時間をずらし、順々に火を入れている。
わたしはここのいも祭りが大好きで、初回を含めて数回きている。今年は今日がその日で朝早く家を出た。いつもの年なら気分はルンルンだが、今回は気になることがあった。天気予報によると昨日の千葉県地方の天気は夕方から崩れ、夜半は大雨。ただし翌朝からは快晴という祭りの主催者にとっては最悪のものだったからだ。
これではもみがらの山はずぶぬれになり、燃しようがないであろう。一方、祭り当日が朝から晴となれば、客は焼き芋があるものと思ってどっときてしまうだろう。どうなってしまうのだろうと思って昨日の夕方、町役場の中にある実行委員会に電話してみた。すると向うは意外なほど落ち着いていた。「ええ、今夜の雨は避けられないでしょう。でも大丈夫、明日の祭りはやります。ぜひきてください」と。
それで出てきたわけだが、やっぱり不安だった。あとでわかったことだが、向うも今まで雨にやられたことがなかったのであわてたようだった。でも焼き芋のないいも祭りなんて考えられない。なんとしてでも焼き芋広場を守れとなり、その時点ではすでに緊急の雨対策工事が急ピッチで進められていたのだという。
昨夜の栗源は予報通り大雨だった。畑や道路のいたるところに大きな水たまりができていた。やっぱりやられたなと思いながら焼き芋広場にきて、あっと驚いた。どのもみがらの山も、いつもと同じだったからだ。すでに灰の山になり、中のいもを取り出すだけになっているブロックもあれば、煙突からもうもうと煙を吐いているブロックもあった。
ただいつもと違っていたのは、その上に防水シートが張られていたことだった。そうするために、もみがらの山の配置も変えられていた。直線上に山をたくさん並べる。そういう列が何本もあった。どの列も両側から適当な間隔で鉄パイプを組み上げ、その上にシートを張っていた。
町の人によるとむずかしかったのはその高さだったという。シートが高過ぎると横から雨が吹き込んでくる。それで低くすると煙突から出る火で燃え上がってしまう。その調節に手間どったが、なんとかなったのだという。さすがは自他ともに認める日本一の焼き芋広場だ、やることが違う。