ゆうべのNHKテレビ、「その時歴史が動いた」は、「日本を救ったサツマイモ 町人・青木昆陽 大抜てき」だった。今日はそれを見て戦争による食糧難時代のことを思い出してしまったという老人が何人も来た。川越のある農家の主人もその1人でこんな話しをしてくれた。
「わしも70半ばになった。戦争中は農家の者までが食う物に困ってた。うちの方には田んぼがなかった。畑ばかりの所だ。食い物といえば麦とサツマだけだった。そのサツマもくずいもばかりだった。苗床の苗を取ったあとの種いもまで食ったんだぜ。あれは人間の食うものじやあない。それほどまずいものだつた。
農家の者がなんでそんなものまで食わなければならなかったのかって? 国に納めなければならない供出割り当てがきつかったんだ。麦やサツマをいくら作っても手元に残らないようになっていた。そこをごまかしてサツマをいくらか浮かしたんだが、それは自分の家の食べ料ではなかった。
当時の農家が一番困っていたのは衣料品だったが、その配給はほとんどなかった。農家は毎日が重労働なので下着も作業着も傷みがひどい。だれもが継ぎはぎだらけのボロボロのものを身につけていた。
川越は東京に近い。そこからサツマの買い出しに来る人が多かった。農家はその人たちに金では売りたがらなかった。なにしろ今と違ってモノがまったくない時代だった。金があっても1本の手ぬぐいも買えなかった。だから物々交換になった。それも衣料とサツマというのが多かった。そうなると相手も必死だ。向うにとっても必要な、なけなしの衣類を手放すわけだ。くずいもなんかとでは話にもならなかった。だから農家はいいいもは交換用に残し、くずいもを食ってたんだ。
それにしてもあの頃はひどい時代だった。飢饉と同じようなものだった。それでもサツマがあったから、なんとかなったんだ。それを忘れてはだめだ。ばちが当たるよ。
わしはこのいも資料館の前を何度も通っている。でも中へ入ったのは今日が初めてだ。サツマを大事にしている所が川越にあって嬉しいよ」。