当館の開館は午前10時。それと同時に中年の男の3人組が入ってきて、熱心に見てくれた。そのうち親分格の人が、「川越にも、いもの歌がありますか」と聞いてきた。笠木 透氏といい、岐阜県中津川市にあるフォークソングの会「雑花塾」のリーダーだという。
わたしは二つ紹介した。一つは太平洋戦争後、川越で最初にいも掘り観光農園を始めた中台の坂本長治さんが作った「いも掘り音頭」。もう一つは川越いも友の会が公募した歌詞数編に、フォークソング歌手の高橋 勉さんが曲を付けてくれたもの。
雑花塾の人たちは今日の午後、川越市の山吹会館で公演することになっている。その前にちょっと時間があったので、有志3人でどこか面白そうな所へ行こうと探したら、当館があったのだという。それだけでも嬉しい話なのに、もっとすばらしいことがあった。

笠木さんに「岐阜県にもサツマイモの歌がありますか」と尋ねると、思わぬ話が出た。
「うち方でサツマイモの本場といえば岐阜市の東の各務原です。太平洋戦争中から戦後にかけての食糧難時代に、みんながヤミイモの買い出しに行った所です。ただせっかく手に入れたいもも、取り締まりのお巡りさんに見つかると取り上げられてしまいます。それであの辺1帯で『いやじゃありませんか軍隊は』で始まる『軍隊小唄』の替歌で、こんな歌がはやりました。そう、昭和30年頃まではまだ所どころで聞くことができました。

 いやじゃありませんか

 いも買いに

 各務原に いも買いに

 鵜沼の巡査に いもとられ

 悲しく帰ったこの私

 ほんとにほんとに悲しいわ

 鵜沼は各務原市鵜沼町です。岐阜市方面に出るにも高山市方面に行くにもどうしても通らなければならない所なので、いつも巡査が見張っていた所です」

笠木さんは岐阜県恵那郡岩村町で生まれ育ったという。戦争が終ったのは国民学校の2年生の時。当時、家の人は山を開墾し、サツマイモを必死で作っていた。笠木さんも子供ながらそれを一生懸命手伝い、いもばっかり食べて育ったという。同氏は最近、戦争中の子供の替歌などを集めたCDブックス、『昨日生まれたブタの子が』(あけび書房、1995)を出した。幸い手持ちがあるとのことだったので1冊分けてもらった。
それに「いやじゃありませんか芋買いに」があった。戦後子供たちが「ジングルベル」の替歌で歌ったという「いも食えばへが出るぞ ズボンが破れるへのちから ブッブッ~こらえてもおさえても止まらない」という面白いものもあった。