当館1階の売店では生イモの展示即売もやっている。1年中あるのは鹿児島県知覧町産のべニコウケイ(紅高系)だが、来館者はなによりも川越イモを欲しがる。「川越イモといえばべニアカ(紅赤)に決まっているが、これは年中はない。それは晩生種なので、10月14日、15日の川越祭が終ってからでないと掘れない。この頃になるまで待たないと本当の味がでない。
それと寒気に特別弱いので正月を過ぎると急に腐りやすくなる。したがってベニアカは10月中旬から12月にかけての僅か2~3か月しか置けない。わたしは今春、当館に動めることになった時、べニアカを扱うなら「富のイモ」と決めていた。
「川越イモ」は川越市内産のイモだけではない。川越市周辺の市町村のイモも広く含んでいるが、その中で江戸時代の昔から一番うまいとされてきたのは「富のイモ」だった。 元禄の昔、川越藩主柳沢吉保は、武蔵野台地のまんまん中に上富、中富、下富の3村からなる藩営の「三富新田」を開いた。いずれも名イモの産地として有名だったが、最近はここでもイモ畑が激減してしまい、今なおべニアカ農家が残っているのは上富だけだ。
ここの知り合いに高橋道夫さん(昭和4年生まれ)がいる。高橋さんは50年もイモ一筋で来た人だし、三芳町がやっているイモ作り教室の専属講師でもある。それに第一、イモがいい。そこで着任早々秋のベニアカを頼みに行くと、「ありがてえな、おれのイモを天下の『イモ膳』さんに置いてもらえるなんて」と大喜びで引き受けてくれた。
高橋さんが最初のべニアカを持ってきてくれたのは10月24日だった。予想通り評判は上々でわたしも嬉しかった。その高橋さんが今日も自慢のベニアカを持って来てくれて、こんな話をして行った.
「若いうちは百姓がいやでしょうがなかったが、今となってはイモ一筋で来て良かったと思ってるよ。ベニアカを作っていると、60を過ぎてもみんながなんのかんのと騒いでくれるかんな。これがダイコンやニンジンだとだめだ。どんなにいいものを作っても、だれも騒いではくれないよ。
イモを作っているといろんな人が来てくれる。『本物の川越イモが欲しい』とな。よくトシを取ると友達がいなくなるという。ところがこっちは逆だ。知り合いがふえる一方だ。
それにどこへ行っても肩がこらない。『川越でイモを作ってる』だけで通っちゃう。だれでもそう聞くとニコッとなってすぐ『やあ、やあ』の仲になっちゃう。テレビにもよく引っ張り出されるが、イモのことでなら足を引っ張られることがない。村の者も『また出てたな、見たよ』だけだ。サツマイモって、面白えものだなあ」