江戸の世情に詳しい三田村鳶魚氏によると、江戸にそば屋が多かった最大の埋由はそばが安かったからだという。その一杯は長い間16文だったから、だれもが気軽にたべられた。それで客が多く、店も繁盛したとある(『三田村鳶魚全集・第7巻』、中央公論社、昭和50年。137頁)。
江戸の文人、寺門静軒が天保期(1830~44)に出した『江戸繁盛記』に、「焼薯(やきいも)という章がある。本書は漢文で書かれていたので、のちに佐藤進一氏訳の同名の本(三崎書房、昭和37年)が出て読みやすくなった。それで当時の焼き芋の値段を見るとこうある。
四文も買えば泣き叫ぶ子供をなだめられる。10文も買えばたべ盛りの書生の朝めしのかわりになる。まったく重宝な食物だと。
またそれをたべているのは貧しい人たちだけではない。高貴な人たちも喜んでたべているともある。
そばより安いものが貴人にとっても好物の一つだったたとはおもしろい。その事例がわかればもっとおもしろくなる。そう思ってて前々から探していたら、今日はなんと運のいい日なのだろう、川越市中央図書館で見せてもらった江後迪子の『隠居大名の江戸暮らし』(吉川弘文館、1999)にそれがあった。
大分県白杵(うすき)市は白杵藩の城下町である。同藩は5万石余。藩主は代々稲葉氏だった。その江戸時代中期以降の「奥日記」が市立臼杵図書館にある。「奥」とは殿様とその家族の私的な暮らしの場で、そこでのさまざまなできごとを奥祐筆が書き留めていた。政務とは別の世界のことだけに、思いがけないことがよくある。
その研究をされている江後氏が成果の一部を発表されたのが本書だった。それによると奥日記にもっとも多くでてくる人物は稲葉家11代の雍通(てるみち)公となる。23歳で藩主となり、文政3年(1820)、44歳で隠居した。同家の江戸屋敷は上屋敷、下屋敷の二つで前者に殿方とその奥方、子供が住んだ。殿様が隠居して大殿様になると下屋敷に移るのが稲葉家のしきたりだったので、雍通公も隠居後は下屋敷に移った。そして71歳で亡くなるまでそこに在り、余生を楽しんだ。
その楽しみかたがほほえましい。寺や神社によくでかけただけでなく、祭礼や花火、相撲などがあると聞けばさっそくでかけている。時には他藩の大名行列の見物までしている。そしてその帰りに家族などへのちょっとしたみやげを買うことも楽しんでいた。江後氏はその中に焼き芋もあったとこう紹介されている。
「さつまいものことを大分では今も唐(とう)いもという。この唐いもがおやつとして多出する。焼き芋だったと思われる」
その焼き芋を「文政8年(1825)9月には大殿様が神田明神へ行ったときお子様ヘ、文政10年11月には奥女中への土産に買っている。大名家でも普段のこどものおやつに焼き芋を買っていた。その値段は弘化3年では一回に50~100文ほどであった」(155頁)。
隠居の身とはいえ、元大名が外出先でみやげの焼き芋を買っている。また大名屋敷でこどものおやつにと、それをよく買っていた。焼き芋は安いものだったが、だれにとってもおいしく、嬉しい。そして楽しいものだったようだ。