三重大学名誉教授でサツマイモの研究者として知られる川瀬先生が突然こられた。いろんな話がでた中で、わたしにとっても一番よかったのは次のようなものだった。

「太平洋戦争末期の昭和19年秋のことだった。当時旧制高校の生徒だったわたしたちは勤労動員で農家のサツマイモ掘りの手伝いに行った。場所は島根県の大田と石見銀山との間の村。人手不足で特に困っている農家に3~4人ずつ分宿して働いた。
畑でいもを堀り、それを古俵の中にポンポン投げ込んでいたら、その家の主人に叱られた。『このいもは戦争で足りなくなったお米の代わりに都会の人たちに配給するものだ。それを乱暴に扱って表面に傷をつけてしまったらどうなる? サツマイモはもともと腐りやすいものだ。そこから腐ってたべられなくなってしまうことだってある。そんなことになってもいいのかね』と。
わたしたちははっとした。悪いことをしてしまったと反省し、それからはいもをできるだけ大事に扱うように心掛けた。
わたしはその後京大に入り農学を学んだ。卒業後も大学に残り、イネの研究をしていた。それが途中からサツマイモの研究をすることになり三重大に移った。そこでの研究テーマはでん粉含有量も収穫量も特別多いいもの開発だった。もっともそれは国のプロジェクトで、わたしは大学に在ってその一端を担ったということになる。
農林水産省の農業試験場で交配したさまざまな種類のサツマイモが全国各地の試験研究機関に配られた。わたしのところにもびっくりするほどたくさんの種類のいもがきた。それを一つずつ栽培して有望なものを選抜するわけだが、その作業が少しも苦にならなかった。例の島根の人の言葉がずっと頭にあり、どんなものでも1つずつ、ていねいに扱うことが身についていたからだ」

偉い先生は心掛けが違うと思った。それとあの戦争中にも消費者のことを考えて自分が作った作物をそこに届けようとしていた人がいたことがわかって嬉しかった。